山藤章二の『ヘタウマ文化論』を読んだので、簡単にレビューしてみます。
良かった点
結論から言えば、読んで得した本でした。
箇条書きで本書の良かった点を挙げてみます。
- 「ヘタウマ」⇔「ウマウマ」という物差しを通して、サブカルチャーから高尚なアートまで整理しやすくなった。
- クリエイターの方たちにとってはいい本。ヘタウマという視点を持つことで創作活動を打開できるから。
- 西洋の芸術観や文化と比較することで、日本の「ヘタウマ」という文化の特殊性を浮きだたせている。
- ヘタウマな芸術家やクリエイターの事例を多く挙げることで、「ヘタウマ文化が日本に息づいている」という筆者の主張に説得力を与えている。
「抽象主義」・「ポップアート」・「ミニマルアート」などなど、分類するに至っては何かと複雑なアートの領域ですが、筆者のように「ウマウマ」・「ヘタウマ」のように分類してみると、シンプルで分かりやすく整理できます。
「ヘタウマ」という簡単なワードでざっくりカルチャーを両断するのは、長年アート業界に携わった著者だからこそできる整理の仕方だと思いました。
イマイチだった点
箇条書きで整理。
- 「ヘタウマがあふれている」と言われたところで、それに日常的に触れている私たちには今さら感がある。
- 徒然なるままに綴った文章で、筆者の体験談を基にした話の展開も多いので、やや客観性に欠ける。
- もう少し学術的に記述してほしかった。
- 江戸あたりの文化についても言及があるが、もう少し踏み込んで「ヘタウマの起源」みたいなものを分析してほしかった。
『ヘタウマ文化論』は新書です。なので、編集者は、学問的な側面より読みやすさを優先させている面があると思います。が、著作全体を通して少し記述が雑なように感じました。
読後感は読み手によって好き嫌いが分かれそうです。
その他感想
その他思ったことをざっと書いてみます。
ネット文化もヘタウマ
「ヘタウマ」という視点をもって世の中を見渡してみると、ネット文化であるYouTubeやSNSもヘタウマ文化として見えてきます。
例えば、Instagramは素人の写真家、twitterは素人の文筆家、YouTubeは素人の映像作家の集合体みたいなところがありますよね。
これらのネット文化は、ウマさよりもオモシロさを優先させるヘタウマな素人が先陣を切って文化を育ててきた面があります。
どこまでもヘタウマは続く?
本書が書かれたのは2013年。今は2020年です。文化にはトレンドがあり、いつまでもヘタウマ文化が続くとは思えないし、少しずつ事情は変わっているかもしれません。
ということで、いろいろ思い巡らせてみましたが、「ヘタウマカルチャーはまだまだ続きそう」という結論に至りました。
例えば、先ほど述べたネット文化。
2013年当時と比べると、確かに、ネットカルチャーは芸能人やプロ(「ウマウマ」を得意とする人たち)が進出してきてヘタウマを主力とする人たちが活動しづらくなっている面があります。例えば、YouTubeは芸能人の進出が目覚ましいですよね。
シ○ターみたいなYouTubeのご意見番はこうした状況に苦言を呈しています。
しかし、進出してきた芸能人やプロたちの中には、素人たちと同じくヘタウマを主戦場として活動している人も多いです。
とすると、「ヘタウマ」という文化圏の中で勢力図が変わっているだけなので、一歩引いてネット文化全体を見渡してみると、ヘタウマがメインストリームである状況はそこまで大きく変わらないと思うのです。
オモシロいことが重要である「ヘタウマ文化」において、その担い手は芸能人であれ素人であれ、作品を享受する側としては誰でもいいわけですし。シンプルに、「面白ければOK」なんです。
クリエイター目線で見た「ヘタウマ」
クリエイター目線で「ヘタウマ」という言葉を考えてみると、本書を読んだクリエイターの中には、「技術的に下手でもいいじゃん!」と勘違いするクリエイターが湧いてきそうなのが何とも言えないですね。
しかし、ただ下手な作品というのは、「ヘタヘタ」な作品であり、「ヘタウマ」とは別物なんですよね。
あくまで確かな技術を持った人、「ウマウマ」な作品を作れる人がわざとヘタに作品を作るから、「ヘタウマ」が成り立つわけです。
その意味で、技術的な逃げ道として「ヘタウマ」はあり得ません。
「ヘタウマ」でも「ウマウマ」でも何でもいいですが、作品を生み出すというのは並大抵のことではありません。
ヘタウマも楽ではないということですね。